院長 プロフィール

私には、特別なものは何もありません。あるのは
自分の人生を救ってもらった、この療法への感謝だけです。

 

院長 プロフィール

 

こんにちは!
白葉整体院 院長の白岩孝裕です。

 

この度は、当院のホームページをご覧いただきまして、ありがとうございます。

 

このサイトにお越しくださいました皆さまに、信頼を頂けるよう努力いたしておりますが、私には何のたいした経歴もありませんし、決して先生などと呼ばれるような立派な者でもありません。

 

ただ、私は、自分を救ってもらったこの療法に「感動」しました。
それは、私自身を強く動かし、この施術を学び、同じ苦しみを持った方々へ向き合い、全力でサポートしていく仕事となっていきました。
私が皆さまの信頼に値する者かどうか、ご判断頂けるような立派なことは何も書けませんが、

 

このホームページをご覧になり、当院の施術や健康に関する考え方に、ご理解とご賛同を頂き、希望を持たれ、これにかけてみよう!と思われた方々、ご縁を頂けた皆さまに、誠心誠意を尽くしてまいります。
私の生い立ち、そして、この仕事をするきっかけとなった、私自らの腰痛体験を書いてみました。ご覧頂ければ幸いです。

 

院長プロフィール 「生い立ち」

 

私は、1967年 昭和42年 千葉県野田市生まれです。
この町で、生まれ、育ち、仕事をし、所帯を持っています。

 

小さい頃から、体が弱く、体力もありませんでした。
人見知りが激しく、友達と遊んだ記憶もほとんどありません。

 

野田市に川崎重工業の工場があり、その運送の下請けをしていた会社に両親が勤めていて、その事務所の2階に幼少の頃住んでいました。

 

野田市の南部工業団地の真ん中に住んでいましたので、住宅地のように、周りに同じ年頃の子供もいなくて、3畳ほどの物置のような部屋におもちゃがいっぱいあり、そこで一人で遊んでいた記憶が強くあります。

 

家から道路を挟んで向かい側が大工場なので、大型のトラックやダンプがひっきりなしに走っていました。

 

そのため、「道路に出たら危ないからね!」とか、「あっちは怖いよ!」などと繰り返し聞かされていて、そのおかげで、今でも道路が怖く、車の運転が大嫌いです。また、極度の方向音痴でもあります。

 

「三つ子の魂百まで」と言われるように、この幼少期に過ごした環境は、引っ込み思案な性格を強くしたと思っています。

 

大人が忙しい時には、おもちゃ部屋に入れられ、鍵を掛けられました。
泣きながら、「出してよ〜!!!」と叫び続け、ドアをずっと蹴り続けていたことも記憶に残っています。

 

「とっても友達が欲しかった!」大人が遊んでくれたり、子守に来てくれたりしていたのですが、やっぱりさみしかったのですね・・・

 

友達は、白い猫と白いスピッツだけでした。
テレビのアニメ番組を見ていて、動物に乗って走るシーンがあり、真似をして猫の背中に何度も乗ろうとして、その度にひっかかれていました。

 

白いスピッツは、皮膚病になって、獣医さんが何度も注射をしに来てくれていました。
それを見ては、ずっと泣いていた思い出があります。

 

4歳ちがいの弟がいるのですが、弟が生まれるちょっと前に、今、院を開いているこの家に引っ越してきました。

 

国道16号線に近いのですが、その頃、ちょうど作っている時で、子供心に、果てしなく続く砂利道に、シャベルカーがゴロゴロ動いていたのを覚えています。

 

引っ越してからも、近所の子達と、どう接していいのか分からず、ずっと一人で遊んでいました。

 

その頃、幼稚園に行かされていましたが、行っては、「ママー! ママー!」と泣き叫び、母親が迎えに来ていないか、幼稚園の門に見に行ってしまい、そのため、うちではお預かりできません、ということで、幼稚園をクビになったことがあります。

 

「泣き虫」・「人みしり」・「引き籠り」・・・
これからどうなるのか、心配だらけの子供だったと思います。

 

院長プロフィール 「子供のころ」

 

母方のおじいちゃんが近くに住んでいて、いろんなことをやる人でした。
野田市で初めて、カレーライスを販売したり、結婚式場を本家の敷地内に作ったり、名物おじさんだったようです。

 

そのおじいちゃんが、子供の「かんの虫」のお祓いができる人でした。
遠方からも子供を連れてくる人がいたようです。

 

私は、おじいちゃんに、『この子は、特に「かんの虫」が強い』と言われていて、お祓いを受けさせられていたのですが、嫌で嫌で、泣きながら逃げ回っていました。

 

手のひらに、墨で、虫・虫・虫・・・と沢山書いて、手をにぎって、何かおまじないを言って終わりなのですが、絶対手を開かなかったです。

 

今思えば、よ〜くお祓いをしてもらえば良かったのかな、と思うことが沢山あります。
とにかく変わった子でした。

 

小学校に入る前に、鉄棒で、逆上がりが出来るようにならないと笑われるよ! と親に言われ、特訓をやらされていた時、「こんな重力に逆らって、上がるわけない!」と言って困らせました。

 

小学校1年か2年生の時、風邪をひいてベットで寝ていた時、天井を見ていて、「この先の向こうには、また何かがあるはずで、そのまた向こうには、また何か空間が存在するはずだから、ずっと永遠に限りなく続くよなあ〜」と考えていて、終わりがないなんてありえないのに、今が存在していることが怖くなって泣いていた思い出があります。

 

何か子供の頃から、理屈というか、哲学的な考え方を感じていた、不思議な子供でした。

 

院長プロフィール 「成長」

 

何をしても、引っ込み思案な性格で、黙っていれば何もなく過ぎていくし、誰も自分にかかわろうとせず安全で気楽だろうという考えの少年が、初めてちゃんと大人に叱ってもらったのが、小学校2年生の時でした。

 

その時の担任の斉藤先生は、年配の女性で、ベテランの先生でした。
私が、作文か何かの課題を提出せずに、しらばっくれていて、次の体育の時間にみんなと校庭に出て遊んでいました。

 

その時先生が、みんなを集めて全員を座らせ、作文を提出していない人がいます。立ちなさい。と言いました。

 

何人かがすぐに立ち上がりましたが、恥ずかしさのあまり、自分は立てず、しらばっくれていれば終わるだろうと思っていました。

 

先生は、あきらめず、もう一人いる。と、ジッと名乗り出るのを待っていました。
まわりの子達は、「誰だ?・・」と囁いていて、この注目の中、のこのこと立つ事はもう出来ず、針のむしろのような状況で固まっていました。

 

そんな中で、先生の方を恐る恐る見てみると、キッと一点、私の方を見つめています。もうダメだ!と思い、のそりと立ち上がりました。

 

まわりの子達は、「えっ!? あいつが・・・」と言っていました。(見かけ良い子ちゃんだったので)みんなの見ている前で、先生にしっかり叱られました。

 

あれは効きました!
そして、それからちゃんと意思表示ができるようになった気がします。

 

それからは、クラスの先頭にたって意見を言えるようになり、知らない間にみんなが信頼を寄せてくれるようにもなっていきました。

 

あの時の担任の斉藤先生は、私の一人目の恩人であり、恩師であったと、今でも感謝しております。

 

院長プロフィール 「あだ名」

 

中学生になり、ガリガリで、体力のない私でしたが、入学してすぐの体力測定で、その深刻さを思い知りました。

 

50m走、垂直飛び、握力など、全ての項目で、女の子の平均を大きく下回っていました。

 

中学1年の夏に、市内の陸上競技場へ応援しに行ったとき、外野スタンドの芝の上にゴザをひいてみんなで座っていたら、私のその姿が、よく社会の教科書に載っているカンボジア難民の写真にそっくりだったらしく、「難民」というあだ名が付きました。

 

あんまりうれしいあだ名ではなかったですが、みんなが、「なんみん」ではなく「なんちゃん」と呼んでくれるようになりました。

 

わたしの名前は、「しらいわ」も「たかひろ」も、とても言いづらく、みんなも呼びにくかったようで、とてもコンプレックスを感じていました。

 

そこで、「なんちゃん」と呼んでもらえるようになり、その頃から、みんなとの会話が増えて楽しくなりました。

 

院長プロフィール 「目標と遊び」

 

私の高校生の頃に、「三無主義」という言葉が流行っていました。

 

「無気力」・「無関心」・「無感動」・・・だったかな?
まあ、こんな感じの3つでした。

 

理系の大学の付属校で、男子校だったのですが、この三無主義が蔓延していました。

 

何か、夢とか目標とかをもっと語り合うような、熱い気持ちで何かしたい!ということが、あまりなく、ぶらぶら遊んでいるのが、たまらなく嫌でした。

 

世界では、飢餓で餓えている人や、戦争で苦しんでいる人が大勢いて、同じ人が辛く苦しんでいるのに、こんなに楽に目的もなく遊んでいていいのか?

 

この思いは、常に強く自分の意識にあり続けました。
何かしたい! 何かしたい!・・・
ずっと思い続けていたことです。

 

この頃、英語は赤点ギリギリで、苦手だったのですが、勉強して留学し国連に入りたい、と思うようになっていました。

 

うちには留学するようなお金はなく、自分で働いて学費を貯めようと、朝、新聞配達をし、昼、工場で働いて、お金を貯めながら必死で英語の勉強をしていました。

 

都内で、外国人の集まるパーティーがあると聞くと、出かけていき、無謀にもあたりかまわず話しかけ、英会話を磨いていました。

 

口べたで、引っ込み思案の私にとっては、とてつもなく凄い努力だったと、今でも思います。

 

院長プロフィール 「失明」

 

貯めたお金で、英語の勉強にと思い、オーストラリアへ何かの研修で行く機会があり、3か月ほど行って来ました。

 

帰国して、1週間後に、頭が割れるような痛みを感じ、直後に全く光を感じなくなってきました。

 

病院へいくと、失明の可能性があると言われ、即入院。

 

いくつもの検査をしましたが、原因不明のまま、ステロイドホルモンの点滴を1か月受けて、徐々に回復していきました。

 

入院中、失明の危機があったわりには、不思議と不安はなかったです。むしろ、見えない時期を楽しんでいました。

 

不謹慎な言い方かもしれませんが、気がついたことがあります。
良く見えるから恥ずかしかったのです。

 

普段は、恥ずかしくて、女の子に話しかけたり冗談を言ったりは出来なかったのですが、見えない時は面白いように出来たのです。

 

目は全く光に反応していなかったのですが、白黒で、人や物の輪郭はなんとなく分かりました。顔の表情は分からなくても、しぐさは分かりました。

 

看護師さんや、まわりにいる女性に、顔を近づけていき、「かわいいね!」と言うと、照れているようなしぐさが分かり、それから、「よく見えないんだけどね!」と言うと、結構みんな笑ってくれて、とても面白かったです。

 

1か月の入院生活を満喫し、退院後、薬の量を徐々に減らしながら飲み続け、自宅で安静にし、3か月で完全に視力も回復しました。

 

この頃に、自分は、何か世間に対する反感で、がむしゃらに無理をして頑張ってきたんだと気づき始めました。

 

平和ボケした世間や無関心な態度が嫌で、その中で、自分の楽しみや遊びを持つことが、自分自身許せなかったのです。

 

何かをしたくても、何も出来ず、かといって世間にも上手く馴染めない。
また、なんとなく自分の殻に閉じこもっていったように感じていました。

 

院長プロフィール 「心に響いた感謝の言葉」

 

その後、地元で職をいくつか転々としました。

 

その中で、院をひらく前に10年程お世話になった会社で、今でも胸の奥に焼き付いている、もの凄い言葉を頂きました。

 

入社したばかりの頃です。その当時はすでに引退していた会長さんが、会社の敷地に植えてある植木の世話をしに、ちょくちょく会社に来ていました。

 

初めてお会いした時に、「この度、お世話になることになりました、よろしくお願いいたします。」と、ご挨拶をしました。

 

その時、会長さんに、「忙しいか?」と、聞かれ、
「はい、忙しく働かせて頂いております。」と、お答しました。

 

「ありがてえなあ〜!」

 

この時の、会長さんが放たれた、この「ありがてえな〜」の言葉には、もの凄い思念が籠っていました。

 

この会長さんが、会社を立ち上げ、育て、大きくした、その苦労と、自分が引退しても尚、会社を忙しくしてくれているお客様への感謝の念が、「ズドン」と、一瞬に胸の奥に焼きついたのです。

 

この人が、どれほど会社を愛し、仕事を愛し、そして、どれほど一人一人のお客様に感謝しているのか、その思いの強さが、心に突き刺さりました。

 

ただの感謝の言葉ではない、こんなにも思いと思念の籠った、こんなにも凄い「ありがてえなあ〜」は、初めて聞きました。

 

この思いに負けないくらい頑張って仕事をしようと、すべてのお客さんの所で、人が見ていようがいまいが関係なく、一切の手抜きもやるべき事の省略もしたことはありません。

 

折しも、会社が効率化を叫び、なるべく少ない人員で同じ仕事をこなそうとしている中で、要領よく手短に仕事をすることが出来ず、必死で一切の手抜きをせず、頑張っていました。

 

その無理もあったのでしょうか?
元々屈んで行う作業が多かったので、ひどい腰痛になってしまいました。

 

この腰痛には、苦しめられましたが、会長さんの「ありがてえなあ〜」の気持ちに恥じない仕事をしてきたことに、一切の悔いはありません。

 

この思いは、今現在、自分で院を経営していく上で、
根幹を貫く最大の指針となっています。

 

この会長さんが亡くなられた時、会社のみんなとご葬儀のお手伝いをさせて頂きました。
ご冥福を祈りながらこみ上げてきた感謝の念は、今でも私の魂にしっかり刻まれております。

 

院長プロフィール 「父の死」

 

私の父は66歳で亡くなりました。脳溢血でした。

 

亡くなる2年程前に、頸椎ヘルニアの手術を受けています。
この手術と脳溢血との因果関係はありません。

 

元々お酒が好きで、毎晩飲んでいました。
特に、60歳で定年退職してからは、飲みっ放しでした。

 

首の痛みから、身体の体調が悪く、手術の嫌いな人でしたが、さんざん悩んだ末に、手術を決断しました。私がこの療法に出会う前のことです。

 

手術後、期待していたような治療効果はなく、「痛い」、「辛い」、などの症状は改善していませんでした。

 

そのストレスから、さらにお酒を飲むようになり、倒れました。

 

今なら、もっと何かしてあげられたはずです!
もっと早く、この療法に出会っていれば、もっと楽に余生を送ってもらえたと、

 

どうしてもそう思わずにはいられません!

 

院長プロフィール 「私の腰痛体験談」

 

私の腰痛に関する想いと治療体験を書いてみたいと思います。

 

私のスポーツ歴は、水泳、剣道、バレーボール、空手、ゴルフなどです。中学、高校とバレーボールをやっていて、高校2年の時に初めて腰痛になりました。

 

スポーツは好きで、のめり込む性格なのですが、体がついていかなくて歯がゆい思いを何度もしてきました。

 

今思えば、子供の頃から、頸椎の歪みは相当あったのではないかと思います。
もし、子供の頃にこの施術を受けていたら、もっと思いっきりやれたし、もっとパフォーマンスを発揮できたのにと、思わずにはいられません。

 

勉強も嫌いではなかったのですが、とにかく机の前に座っていることがとても辛くて、いつも変な姿勢をしていました。

 

集中力が続かない自分を責め続けたこともあります。
頚椎の歪みは、全身の骨格のバランスを著しく崩します。

 

同じようにただ座っているだけでも、ラクにいられる人と、大変きつい人がいるのです。
もし、ご自身やお子さんに思い当たる節のある方、すぐにご相談ください。

 

「頸椎の歪みは、神経エネルギーや大いなる生命力の元栓を止めているようなものだ」とよく表現されます。

 

無限なる能力を表現するためには、脳から脊髄を通って体の各部へ正確な情報と生命エネルギーが淀みなく流れ循環していく必要があります。

 

一刻も早くその元栓を開けてあげることが、どれほどの能力を開放するのかと思っただけで、ゾクゾクします。

 

高校の時の腰痛で、半年も運動ができず、何をしていても体がきつくて、あまりいい思い出はなかったです。

 

さんざん調べたあげくに結局原因はわからず、保険の効かない整体を週2〜3回のペースで、半年も通いました。親にも相当の負担をかけてしまいました。

 

30歳を過ぎてから、仕事の付き合いで始めたゴルフにはまり、週に何千球も練習場で打っていました。腰痛経験があったので、入念にストレッチをし、マッサージにも通って常に警戒はしていました。

 

その頃、浄化槽の維持管理の仕事をしていて、屈んだ体勢での仕事が多く、腰への負担はあったのでしょうが、冬のある日、トイレの詰まりを直すため便器を取り外そうとして力を入れた時、腰に鋭い痛みを感じました。

 

それから2か月間、毎日治療に通い色々やってもらいましたが、おもわしい改善がみられず、MRI撮影は3回もやりましたし、ブロック注射もやりました。

 

初め腰の右側の奥の方が痛かったのですが、そのうち右足の付け根がから足先までしびれるようになり、そのうち今度は、右腕の肘から手先までがしびれるようになりました。

 

レントゲン撮影での見解は、足の付け根も肘も首も異常なしとのことで、なぜしびれるようになったのか全く解らないまま、飲み薬と湿布を頂いてきました。

 

腰のMRI撮影での診断は、軽度のヘルニア3か所と、骨の狭窄と、変形がみられるとのこと。年齢よりもっと高齢者の骨の形に近いので、傷みやすいのだろうということで、日常生活に支障がない間は薬で、支障が出るようならば手術を考えましょうとの診断を頂きました。

 

仕事にも行けないし、夜も痛くてしびれて眠れない、けど手術もしたくない!
今は、ネットもあるし、さんざん調べまくりました。同じような経験をお持ちの方、多いのではないでしょうか?

 

この時、現代医学の限界を感じ、科学で割り切れない何かにすがっても治したいと、何かいい整体療法がないか探しました。

 

実は、私の妻は、頸椎ヘルニアで、6番と7番がかなり潰れていて、後遺症が残るかもしれないが手術しかないと、複数の病院で診断を受けていました。

 

やはり、手術は嫌で、友人の紹介で、ある施術を受けに通っていたのです。

 

妻にそこでは何をやるの?と聞いたところ、「私も何をされているか分からないけど、首の後ろをチョンとするだけだよ」ということで、う〜ん、腰はどうなのかな〜と思いましたが、治療を受けに行く前と後での妻の体調の変化をまじかで見ていたので、思い切って聞いてもらいました。

 

とにかく連れて来なさいとの先生のお言葉で、足を引きずるようにして目白まで行きました。

 

先生は色々と説明してくださったのですが、辛くて辛くて、とにかく早くやってという感じで、もう、何をされてもいいです、これ以上悪くはならない程辛いので、この世の全ての療法をこの身に受けてでも治す覚悟です。という心境でした。

 

首の後ろを「チョン」とされた直後、「あれ・・・なんかラクになった気がする」と思いましたが、その後1時間寝かされている間に感じた、あの不思議な感覚は一生忘れないでしょう。
私は体の右側に集中して症状があり、右腰は常に鈍痛があり、右足がしびれ、右腕がしびれていました。

 

施術を受けて寝かされている時、その右半身だけが頭の右上のほうに、ギュウーンと引っ張られているような感覚があり、1時間後起こされた時、あれ程しびれていたのに、腕も足も完全にしびれは消えていました。

 

右腰の奥には、まだ、塊のような痛みが残っていましたが、とにかく体がラクでスッキリしていました。3回目に受けた時には、その痛みもすっかり取れてしまいました。

 

これは、あくまでも私の体に起きたことであり、同じ症状の人に全て当てはまることではありません。

 

しかし、これ程、医学が発達し、科学が発展し、情報が溢れている世の中で、
全く想像もしていなかった感動するほどの技術が、知らなければ知らずに終わってしまったところにあったことを、しみじみ思い知らされました。

 

その後、その施術の先生に師事を受け、
2008年10月に自宅にて白葉整体院を開業しました。

 

妻の頸椎ヘルニアは、それ自体が治ったわけではありませんが、上部頸椎の調整のみで何の問題もなく日常生活を送れるようになっています。

 

但し、やはり安定しずらいので、定期的な調整は受け続けなければならず、目白まで電車で往復3時間、治療に2時間で、5時間かけて通っていました。

 

この事も私が、この施術ができるようにと志した一つの大きなきっかけとなり、今では、きつそうな時に、私が調整してあげてます。

 

同じように、何をしても、どうやっても、どうにもならない症状をお持ちのあなたへの、希望と励ましになればと思い、今も、ここで、しっかりと開業させて頂いております。

 

完全予約制(当日予約できます!) 
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04-7124-8235

 

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